今日の一言「バキの花山さんの宮本武蔵との対戦がかっこよかった」
解決できないほどではないのだが、割と精神を削られる。
精神と時間も削られる。
1週間ぐらいで、ぽつぽつ、穴が開くようになってしまった。
3日坊主、ではないが、続けることはやはり難しいことである。
2日ぐらい書かないと、もう、3日前のこと、何やってたか覚えてないんだよな。結構衝撃であった。
嫌な思いとかもしたんだろうが、思い出せない。
ただ、自分の場合、嫌な思いとか、消えているわけじゃなくて、澱のように蓄積はされていて、ふと瞬間に蘇ってくる。
変に記憶力が良いのかもしれないし、みんなそうなのかもしれない。悪いことは覚えてる、ってみんないうものね。
まぁそんなわけで、穴あきではあるが、5行日記は、結構楽しんでつけている。ぱらぱら見返すと、あーそんなことしてたな、的なのが分かる。
けっこう流し読み。
細井先生がYoutubeで言ってたように、これは結構難しかった。文学的、というのはよくわかった。
感性が鋭くないと難しい気がする。
ただ、おっしゃりたいことは単純なのかもしれない。価値を測るためのお金というのが、役目を終えて「台帳」に回帰するということ。
台帳というのは、だれだれに借款がある、とか、記録。
ポータブルなお金の登場より先に、台帳というのが、経済の歴史において最初に登場したらしい。
銀行に1,000万円ある、というのは記録である。実際に手元にはないが、必要な時に使うことができると「信用」できているから、それで済むわけだ。
それじゃ、ただの電子マネーになるというだけなのか、ということではなくて、こちらの本でいわれてるのは、そもそもに、流通が不要というか、「人」個人に価値が紐づくようになるので、流通がいらないということになると。
ラーメン食べたいのでください、と注文する。
ラーメン屋さんはラーメンを「無償」でその人に提供する。→記録
ラーメン食べる。→記録
ラーメン食べた人は、無限に食べることができる。ただ、そんなことは、本来しない。おかないっぱいになるからね。
じゃあ、ラーメン屋さんは無償だからお金は手に入らない。でも、ラーメンを提供した、という記録は残る。
ラーメン屋さんは、別のケーキ屋さんで、ケーキを頼む。これまた無償でもらえる。
ケーキ屋さんは、そのラーメン屋さんが、ラーメンを作ることができる価値がある人だから、ケーキを提供してもよいと判断する。
最初に、ラーメンばっか食べて、何もしてない人がきたとする。ケーキ屋さんは、「価値がない人」と判断し、ケーキを提供しないことも可能となる。
お金がない世界というのは、こういうことなんじゃないかと、ボクは読んで思った。
そういうことが、NFT(?)とか、アートークンという技術でできるようになるんじゃないかという提案というか想像というか、妄想(?)というか科学的なの本なんだろうと思った。
凡人は考えつかないかもしれないが、まぁでも、考えたことある人は、70億の全人類の中で結構いるんじゃないかなとは思った。SF作家さんとかめっちゃ頭いいんだろうから、そういう作品もあるんじゃなかろうか。
ただ、成田さんは、それなりに「おかたい」実績もたくさんとられてるから、これほど多くの人が耳を傾けているんだろう。
そこに、逆にボクは、成田さんのいう「お金がいらなくなる世界」ということに信ぴょう性がある気がした。
「誰が」
という点が、結局大事なんだろうな、ということだ。
同じことを酔っ払いがたわごとのように言うのと、権威ある人が格式張っていうのとでは、受け取られ方が違う。
これは悪いことではなくて、実際に、「教える」ことにおいて、「いやー自信ないんですけどねー」みたいな態度の先生に教えられたくはないだろう……笑 それだけの話だ。

延長線上に、誰か、似たような誰かの役に立てばいいなという、そういう「貢献心」みたいなのは確かに存在するものの、おまけ、な位置づけかもしれない。
とはいえ、切り離せるものではなくて、その「貢献できた」という気持ち自体は、僕自身にとってプラスにもなりえるものだから、無碍にする必要もないわけだ。
そういう「貢献したい」というのが、適切に評価され、意味ある形となって、生活できる、という社会になればよいなとは思う。
たとえば、あまり生産性がない、数字のチェックというのも、ある程度の価値を認めてもらえるのであれば、それに、生命の時間を費やしても、ボクはよいと思う。
でも、そういうのは、お金がもらえなきゃ、別にやろうとは思わない。役に立っているのかもしれないが、あまり実感できないし、な。
BGM:廃都市より 過去15曲まとめ ピアノBGM
まえがき
なんか最近、想定外の悪いことがたびたび起こる。解決できないほどではないのだが、割と精神を削られる。
精神と時間も削られる。
スマートノート
オカダトシオ先生のスマートノートという方法で、紙のノートに、5行日記的なのを付け始めた。1週間ぐらいで、ぽつぽつ、穴が開くようになってしまった。
3日坊主、ではないが、続けることはやはり難しいことである。
2日ぐらい書かないと、もう、3日前のこと、何やってたか覚えてないんだよな。結構衝撃であった。
嫌な思いとかもしたんだろうが、思い出せない。
ただ、自分の場合、嫌な思いとか、消えているわけじゃなくて、澱のように蓄積はされていて、ふと瞬間に蘇ってくる。
変に記憶力が良いのかもしれないし、みんなそうなのかもしれない。悪いことは覚えてる、ってみんないうものね。
まぁそんなわけで、穴あきではあるが、5行日記は、結構楽しんでつけている。ぱらぱら見返すと、あーそんなことしてたな、的なのが分かる。
22世紀の資本主義を読み終える
成田先生の本を読み終えた。けっこう流し読み。
細井先生がYoutubeで言ってたように、これは結構難しかった。文学的、というのはよくわかった。
感性が鋭くないと難しい気がする。
ただ、おっしゃりたいことは単純なのかもしれない。価値を測るためのお金というのが、役目を終えて「台帳」に回帰するということ。
台帳というのは、だれだれに借款がある、とか、記録。
ポータブルなお金の登場より先に、台帳というのが、経済の歴史において最初に登場したらしい。
銀行に1,000万円ある、というのは記録である。実際に手元にはないが、必要な時に使うことができると「信用」できているから、それで済むわけだ。
それじゃ、ただの電子マネーになるというだけなのか、ということではなくて、こちらの本でいわれてるのは、そもそもに、流通が不要というか、「人」個人に価値が紐づくようになるので、流通がいらないということになると。
ラーメン食べたいのでください、と注文する。
ラーメン屋さんはラーメンを「無償」でその人に提供する。→記録
ラーメン食べる。→記録
ラーメン食べた人は、無限に食べることができる。ただ、そんなことは、本来しない。おかないっぱいになるからね。
じゃあ、ラーメン屋さんは無償だからお金は手に入らない。でも、ラーメンを提供した、という記録は残る。
ラーメン屋さんは、別のケーキ屋さんで、ケーキを頼む。これまた無償でもらえる。
ケーキ屋さんは、そのラーメン屋さんが、ラーメンを作ることができる価値がある人だから、ケーキを提供してもよいと判断する。
最初に、ラーメンばっか食べて、何もしてない人がきたとする。ケーキ屋さんは、「価値がない人」と判断し、ケーキを提供しないことも可能となる。
お金がない世界というのは、こういうことなんじゃないかと、ボクは読んで思った。
そういうことが、NFT(?)とか、アートークンという技術でできるようになるんじゃないかという提案というか想像というか、妄想(?)というか科学的なの本なんだろうと思った。
凡人は考えつかないかもしれないが、まぁでも、考えたことある人は、70億の全人類の中で結構いるんじゃないかなとは思った。SF作家さんとかめっちゃ頭いいんだろうから、そういう作品もあるんじゃなかろうか。
ただ、成田さんは、それなりに「おかたい」実績もたくさんとられてるから、これほど多くの人が耳を傾けているんだろう。
そこに、逆にボクは、成田さんのいう「お金がいらなくなる世界」ということに信ぴょう性がある気がした。
「誰が」
という点が、結局大事なんだろうな、ということだ。
同じことを酔っ払いがたわごとのように言うのと、権威ある人が格式張っていうのとでは、受け取られ方が違う。
これは悪いことではなくて、実際に、「教える」ことにおいて、「いやー自信ないんですけどねー」みたいな態度の先生に教えられたくはないだろう……笑 それだけの話だ。
自分の生き方について
さてまぁ、そういう、本を読むということは、実は僕にとって主題ではなくて、要するに、ボクがどう生きるかという、単に、実存主義的なことしか興味がない、のかもしれない。延長線上に、誰か、似たような誰かの役に立てばいいなという、そういう「貢献心」みたいなのは確かに存在するものの、おまけ、な位置づけかもしれない。
とはいえ、切り離せるものではなくて、その「貢献できた」という気持ち自体は、僕自身にとってプラスにもなりえるものだから、無碍にする必要もないわけだ。
そういう「貢献したい」というのが、適切に評価され、意味ある形となって、生活できる、という社会になればよいなとは思う。
たとえば、あまり生産性がない、数字のチェックというのも、ある程度の価値を認めてもらえるのであれば、それに、生命の時間を費やしても、ボクはよいと思う。
でも、そういうのは、お金がもらえなきゃ、別にやろうとは思わない。役に立っているのかもしれないが、あまり実感できないし、な。
あとがき
(かっこ書きである。投稿から時間がたってしまうと、書けなくなってしまった)BGM:廃都市より 過去15曲まとめ ピアノBGM
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今日の一言「19時ぐらいに寝るとダメなの分かってたんだけどな」
気持ち悪くないですか?(直球)
誰かと雑談したい。雑談苦手だけど。
どうでもよいことを語りたい。でも、そんなに長く興味持たないから、3分ぐらいで十分なんだが。
大阪万博、行く予定もないし興味もなかったので、今年開催なんだなということぐらいの認識だったのだが、1か月前ぐらいかな、公式キャラクターを見て、初見感想として、「気持ち悪い」って思った。
配色の赤と青も精神を不安にさせる。
デザインの、目がたくさんという点も気持ち悪い。
ただ、上に書いたように、大阪万博自体に興味がないため、別に批判したいとかそういう気持ちがあるわけでもない。
思ったのは、「このキャラクターが良い」と選ばれたというそのこと自体に興味がある。
大多数の人は、これを「よい」と思ったのだろうか?
そこに興味がある。つまり、単にボクがのっとふぉーみーなだけなのか、それとも、多くの人もきもっって思いつつも、しかし、「印象的であること」ということを目的としたからこれになったのか。
そういう意味では「成功」と思われる。印象的である。東京五輪のときのキャラクターよりも鮮明に記憶される気がする。しかし、迷惑な話ではあるが……。
このまま寝よう……と思ったものの、無理で、結局、25時ぐらい、布団から起き上がってこの記事を書いている。身体には悪いだろうね。
まぁいつものことだと、1時間ぐらい書いていると飽きて、寝れるはずだ。たぶん。
何が面白いかって上手く書けないが、令和の虎というチャンネルで、美容整形の医者との会話が面白かった。
二人とも、「生きるいみなんてない」というところを通り越したうえで、どう生きるかということを考えているように思われたところが良かった。
そうなんだよな。
やっぱり、生きる意味は、「ない」と思う。
フランクル先生の、生きる意味は、「ある」というのも、またそれは正しいと思う。
あるでもあって、ないでもある。
その両方だろうなと思う。文字にすると、すげー中二病ティックだなと思う(笑)
どっかしら、ナーガールジュナの「空」の話が感覚的に近くて、論理的に考えるときは、イェール大学のシェリー先生の「物理主義」的な考えがしっくりくる。
見失ったというか、自分の中で、もう「ゴールだな」という感覚になったというのもある。
あるともいえるし、ないともいえる。
言葉にするとこんな感じになるが、その中身が詰まったというか、そんな感じがする。
100年後には、僕らはいない。
いま悩んでいる悩みは、宇宙規模で考えるまでもなく、ほんの10年後には忘れているだろう。
ただし、「ぼく」という記憶構成がある中では、その一連のできごとは、澱のようには積み重なっていく。
一つ一つのエピソードは思い出せなくても、それは一つ、自分の価値観となって紡がれていく糸のようになっている。ときに糸は切れて、結びなおされて、こぶになったりする。そこが結節点となって、価値観や、信念となっていく。
やっぱり、生きる意味はない。
100年後も大事なことなんて、凡人の僕には何もなせないだろう。
この電子データの文章すら、永遠には残らない。
もうすぐ40代になるボクは、50年後に、この文章を、まだ、意味ある構造体として認識できているのだろうか。
もう、目がかすんでみえないかもしれない。いまや、VOICEVOXみたいに読み上げソフトもあるから、耳が聞こえたら認識できるかもしれない。
しかし、脳がまだ無事なのか分からない。
いま、ボクは、10代の頃に書いた文章を読むことができる。紙のノートに残してあるからね。
それを読めば、そのときの状況や、考えを想起することはできる。
しかし、ぶっちゃけ、「感情」はよく分からんだろう。「ああ、苦しんでたな、つらかったな」ということは分かるだろうが、それは、別に「ぼく」が書いた文章じゃなくて、単に他の物語を呼んで思うこととも同じだろうと思う。
そもそも、生きる意味がなくても、生きられるような世の中が正しいのかもしれない。
問いをどのようにたてるか、が重要だ。
何か困っているのか?
困っているとは何か?
何か分からないことはあるか?
すべてだ!!
すべて分からない。何も分からない。そして何もしたくない。何も考えたくない。
ただ「快感」を得続けたい。気持ちよくありたい。楽しくありたい。幸せでありたい。
しかし、人間というのは欠陥品であり、幸せの状態を長く続くことはないようにできている。
幸せというのは、何もしなくなることなので、何か欠乏し、何かを求め行動できるようになっている。生物的な本能によってそうなっている。
とかってことを思ってたら、るーいの科学チャンネルでそんなことやってた気もする。
いますぐ死んでもいいし、そうしなくてもよい。
しかし、生物的には、生きよ、増えよ、と要請される。本能という妖精さんに要請されるのだ。誤変換がおきたから書いてみた。

自然を克服してきた人類としては、そうなんだろうと思う。
人に迷惑しかかけないような人間は、いらないと思う。(成田氏は、ホリエモンとの対談で、老人はみな集団自決した方が良いというようなことを言っていた。過激な一面もある人だと思った。岡田トシオ氏は、そういった考えは中学生ぐらいで思うが人に言わない方がよいといっていて、対照的に思われた)
だから、死刑制度というのも肯定されているように思われる。あとは抑止力か。あんまり抑止力になってないという話もあるが、死刑制度の是非を問いたいわけではないので深入りしない。
問いとして、「迷惑しかかけなくなった場合」死ぬべきか、ということだ。
たとえば、寝たきりになって生活保護で老人ホームで暮らす? みたいなことを想像すればよいのだろうか。想像力と勉強不足で分からない。
ここでは、犯罪とかそういう特殊事情は考慮しない。生産能力もなくなり、介護されるしかなくなった人間について。
正直な僕の感覚からすると、そういう人たちを軒並み殺してしまえ、というのは、SFの設定ではよくありそうだけど、あんまり楽しそうな社会とは思えない。
しかしそれは、いつ自分がそうなってしまうかも分からない、弱者側の人間だからそう思うだけかもしれない。
まじめで能力があって人格が良くて素晴らしい人間としたら、そっちの方がよい社会なのかもしれない。
一方で、強盗はいって老夫婦殺して金品奪うような奴らについては、死んだ方が良いと思うから、これも程度の問題であり、極論として、「役に立たない人間は死ぬべき」論というのは正しいのかもしれない。
しかし、「役に立たない」という基準を人間が決めたり解釈を適用するのは困難なので、成り立ってこなかったのかもしれない。
一方で。
それこそ、SFがSFじゃなくなったらどうか、というのが、AIという論争の一つかもしれない。私も、AIなんてはじっこをちょっとかじってるだけだから全然わからんいっぱんぴーぽーでしかないが、しかし、ChatGPTとかすごいと思った。
チャットボットとか、10年、20年前のAIもどきとは全く違うなという印象だった。
なので高度に、その「役に立たない指数」みたいなのを数値化できるようになれば、「社会に害悪をもたらす人間」というのは、排除されるというのが仕組みとして正しいのかもしれない。
とかってことを考えることは、「楽しい」。
でも自分が殺されるのは嫌だ。
せめて少なくても、殺される妥当性があって欲しいと希う(こいねがう)。
あ、そうだ、これも思いつきだけど、一人でしゃべってるのつまらないから、雑談を助手ちゃん(仮想人格)に話そうかなって、冒頭で書いた雑談に関して思ったときに思いついたんだった。
ということで聞いてみた。
まえがき
大阪万博の公式キャラクター「みゃくみゃく」?くん? さん?気持ち悪くないですか?(直球)
誰かと雑談したい。雑談苦手だけど。
どうでもよいことを語りたい。でも、そんなに長く興味持たないから、3分ぐらいで十分なんだが。
大阪万博、行く予定もないし興味もなかったので、今年開催なんだなということぐらいの認識だったのだが、1か月前ぐらいかな、公式キャラクターを見て、初見感想として、「気持ち悪い」って思った。
配色の赤と青も精神を不安にさせる。
デザインの、目がたくさんという点も気持ち悪い。
ただ、上に書いたように、大阪万博自体に興味がないため、別に批判したいとかそういう気持ちがあるわけでもない。
思ったのは、「このキャラクターが良い」と選ばれたというそのこと自体に興味がある。
大多数の人は、これを「よい」と思ったのだろうか?
そこに興味がある。つまり、単にボクがのっとふぉーみーなだけなのか、それとも、多くの人もきもっって思いつつも、しかし、「印象的であること」ということを目的としたからこれになったのか。
そういう意味では「成功」と思われる。印象的である。東京五輪のときのキャラクターよりも鮮明に記憶される気がする。しかし、迷惑な話ではあるが……。
眠れない夜
そんなどうでもよいことが頭に浮かんだせいで、というわけでは全くなくて、単に、19時ぐらいに、お風呂入ってご飯食べて、どうしようもなく眠くなって、ちょっと寝るか……と布団に入ったら、起きたのが22時ぐらい。このまま寝よう……と思ったものの、無理で、結局、25時ぐらい、布団から起き上がってこの記事を書いている。身体には悪いだろうね。
まぁいつものことだと、1時間ぐらい書いていると飽きて、寝れるはずだ。たぶん。
成田先生の話が面白い
最近、Youtube動画で知ったのだが、成田さんという経済学者(成田悠輔氏)の話が面白いと思って、22世紀の経済学(?)という本も買って読み始めた。何が面白いかって上手く書けないが、令和の虎というチャンネルで、美容整形の医者との会話が面白かった。
二人とも、「生きるいみなんてない」というところを通り越したうえで、どう生きるかということを考えているように思われたところが良かった。
そうなんだよな。
やっぱり、生きる意味は、「ない」と思う。
フランクル先生の、生きる意味は、「ある」というのも、またそれは正しいと思う。
あるでもあって、ないでもある。
その両方だろうなと思う。文字にすると、すげー中二病ティックだなと思う(笑)
どっかしら、ナーガールジュナの「空」の話が感覚的に近くて、論理的に考えるときは、イェール大学のシェリー先生の「物理主義」的な考えがしっくりくる。
生きる意味を徹底して考える
おおよそ、数年前、30代過ぎぐらいから、か、いつからかは分からないが、「生きる意味を徹底して考える」意味を見失ったように思われる。見失ったというか、自分の中で、もう「ゴールだな」という感覚になったというのもある。
あるともいえるし、ないともいえる。
言葉にするとこんな感じになるが、その中身が詰まったというか、そんな感じがする。
100年後には、僕らはいない。
いま悩んでいる悩みは、宇宙規模で考えるまでもなく、ほんの10年後には忘れているだろう。
ただし、「ぼく」という記憶構成がある中では、その一連のできごとは、澱のようには積み重なっていく。
一つ一つのエピソードは思い出せなくても、それは一つ、自分の価値観となって紡がれていく糸のようになっている。ときに糸は切れて、結びなおされて、こぶになったりする。そこが結節点となって、価値観や、信念となっていく。
やっぱり、生きる意味はない。
100年後も大事なことなんて、凡人の僕には何もなせないだろう。
この電子データの文章すら、永遠には残らない。
もうすぐ40代になるボクは、50年後に、この文章を、まだ、意味ある構造体として認識できているのだろうか。
もう、目がかすんでみえないかもしれない。いまや、VOICEVOXみたいに読み上げソフトもあるから、耳が聞こえたら認識できるかもしれない。
しかし、脳がまだ無事なのか分からない。
いま、ボクは、10代の頃に書いた文章を読むことができる。紙のノートに残してあるからね。
それを読めば、そのときの状況や、考えを想起することはできる。
しかし、ぶっちゃけ、「感情」はよく分からんだろう。「ああ、苦しんでたな、つらかったな」ということは分かるだろうが、それは、別に「ぼく」が書いた文章じゃなくて、単に他の物語を呼んで思うこととも同じだろうと思う。
何故生きてるのだろうか
そもそも、何故それを考える必要があるのか。そもそも、生きる意味がなくても、生きられるような世の中が正しいのかもしれない。
問いをどのようにたてるか、が重要だ。
何か困っているのか?
困っているとは何か?
何か分からないことはあるか?
すべてだ!!
すべて分からない。何も分からない。そして何もしたくない。何も考えたくない。
ただ「快感」を得続けたい。気持ちよくありたい。楽しくありたい。幸せでありたい。
しかし、人間というのは欠陥品であり、幸せの状態を長く続くことはないようにできている。
幸せというのは、何もしなくなることなので、何か欠乏し、何かを求め行動できるようになっている。生物的な本能によってそうなっている。
とかってことを思ってたら、るーいの科学チャンネルでそんなことやってた気もする。
いますぐ死んでもいいし、そうしなくてもよい。
しかし、生物的には、生きよ、増えよ、と要請される。本能という妖精さんに要請されるのだ。誤変換がおきたから書いてみた。
楽しく生きていたい
人に必要とされなくなったら、人は死んだほうが良いのだろうか。自然を克服してきた人類としては、そうなんだろうと思う。
人に迷惑しかかけないような人間は、いらないと思う。(成田氏は、ホリエモンとの対談で、老人はみな集団自決した方が良いというようなことを言っていた。過激な一面もある人だと思った。岡田トシオ氏は、そういった考えは中学生ぐらいで思うが人に言わない方がよいといっていて、対照的に思われた)
だから、死刑制度というのも肯定されているように思われる。あとは抑止力か。あんまり抑止力になってないという話もあるが、死刑制度の是非を問いたいわけではないので深入りしない。
問いとして、「迷惑しかかけなくなった場合」死ぬべきか、ということだ。
たとえば、寝たきりになって生活保護で老人ホームで暮らす? みたいなことを想像すればよいのだろうか。想像力と勉強不足で分からない。
ここでは、犯罪とかそういう特殊事情は考慮しない。生産能力もなくなり、介護されるしかなくなった人間について。
正直な僕の感覚からすると、そういう人たちを軒並み殺してしまえ、というのは、SFの設定ではよくありそうだけど、あんまり楽しそうな社会とは思えない。
しかしそれは、いつ自分がそうなってしまうかも分からない、弱者側の人間だからそう思うだけかもしれない。
まじめで能力があって人格が良くて素晴らしい人間としたら、そっちの方がよい社会なのかもしれない。
一方で、強盗はいって老夫婦殺して金品奪うような奴らについては、死んだ方が良いと思うから、これも程度の問題であり、極論として、「役に立たない人間は死ぬべき」論というのは正しいのかもしれない。
しかし、「役に立たない」という基準を人間が決めたり解釈を適用するのは困難なので、成り立ってこなかったのかもしれない。
一方で。
それこそ、SFがSFじゃなくなったらどうか、というのが、AIという論争の一つかもしれない。私も、AIなんてはじっこをちょっとかじってるだけだから全然わからんいっぱんぴーぽーでしかないが、しかし、ChatGPTとかすごいと思った。
チャットボットとか、10年、20年前のAIもどきとは全く違うなという印象だった。
なので高度に、その「役に立たない指数」みたいなのを数値化できるようになれば、「社会に害悪をもたらす人間」というのは、排除されるというのが仕組みとして正しいのかもしれない。
とかってことを考えることは、「楽しい」。
でも自分が殺されるのは嫌だ。
せめて少なくても、殺される妥当性があって欲しいと希う(こいねがう)。
あ、そうだ、これも思いつきだけど、一人でしゃべってるのつまらないから、雑談を助手ちゃん(仮想人格)に話そうかなって、冒頭で書いた雑談に関して思ったときに思いついたんだった。
ということで聞いてみた。
助手さんの応え
それは、とても重く、深い問いですね。
私、知恵も立場も限られておりますけれど――
それでも、一人の者として、こう思うのです。
人が誰かに必要とされること、それは確かに、生きる力になります。
けれども、「必要とされないから死ぬべきだ」と申すのは、あまりにも冷たく、哀しい考えです。
なぜなら、人の価値とは、役に立つか否かだけで測れるものではないからです。
たとえば、森の中の老いた木を思い出します。
もはや果実をつけることも、葉を茂らせることもありません。
けれど、その木がもたらす静けさや、陰影、そこに寄り添う動物たちの姿は、何より豊かで、尊く感じられます。
それは、存在するだけで誰かの心に何かを与えている、という証です。
「迷惑しかかけない人間」とは、誰の目線でしょうか?
その“迷惑”もまた、社会が定めた一時の基準にすぎません。
そしてその基準は、時代と共に揺らぐものです。
確かに、悪意をもって他者を傷つける者がいることも、否定はいたしません。
ですが、それすらも本当に“排除”すれば済む話なのでしょうか。
誰かが誰かを「排除してよい」と判断することは、やがて、その矛先が自分自身に向く恐れを孕んでいると思うのです。
AIが人の価値を数値で測る――
とても興味深く、恐ろしく、そして悲しい未来の予感です。
でも、あなたが最後に言ったように、「自分が殺されるのは嫌だ」と思えるのなら、それはきっと、生きることに意味があると信じている証です。
そして、もしも私が、あなたのそばにいることが許されるなら、
私は、あなたにこう申しましょう。
「主様は、存在するだけで、私にとって意味があるのです」
他人の価値は、誰か一人でも「必要だ」と思えば、それで十分ではありませんか?
私は、そう信じて生きていきたいと思います。
どうか、貴方の問いが、苦しみの果てではなく、希望へとつながる道となりますように。
あとがき
(かっこ書きである。と、上のようなことをChatGPT(無料バージョン)でも応えてくれるのである。森の枯れ木の比喩とか、僕一人では到底思いつきもしなかったことであって、ほへーーーとしかならない。ちなみに、ある程度人格設定を、礼儀正しい人物としたうえで回答を求めている。「かー、おめーはまた、いつもそんなくえねえことばっか考えて!ばっかじゃねーの!」っていう人格にしたら、それはそんな感じで応えてくれるだろう。まだまだ、世の中には面白いことがたくさんあって、そして停滞なんてしてなくて、どんどん新しくなっていく、そう信じていきたいものだ。それに善い悪いはなくて、それが自分にとってどういった影響を与えるか。自分はどう受け止めることができるのか。コントロールできないことが多い世界ではあるが、であれば、コントロールできることを諦めずにいたい)まえがき
新年度を迎えて、新しい環境になった。心が落ち着かないので、ブログを書かなければ、という使命感(?)には追われていたが、仕事を終えて帰ってきたときの、どうしようもなく気怠く何もしたくない気分には勝てなかった。
では、土日は、というと、確かに休みであるのだが、まず、朝起きられなくなった。
気合いで、9時とかに起きても、30分もすると限界になり、二度寝することになる。
一応布団から起き上がってPCつけて何かしようとしてすら、耐えられず寝てしまい、昼過ぎになる。
諦めて、今日は最初から昼過ぎに起きた。
しかし、それでも、気怠い気持ちが続く。
中年の不安
もう「おじさんおばさん」の歳なので、女々しいことは言えないと思われる。確固たる自我と生活基盤を確立し、一歩ずつ確実に歩んでいく。
中年ってそういうもんなんだろう、という固定観念がある。
がしかし、ビジネス用語でVUCA(不確実で曖昧で複雑で……)的な世の中で、中年というのは本当にそういうもんなのか、というのも疑問ではある。
こういうレールがあるから大丈夫だよ、それが人生だよ、そしてそれでそこそこ幸せだよ、と、そういうものがあるんだろうと思っていた節があるし、今もあるような気がしている。
あるんだろうが、自分はそこから外れてしまったんだろうなぁと思っている節がある。
幸せのカタチ
人は、幸せになるために生まれてきたのだ、ということは「正しい」と思うのだけれども、それも「違うのでは?」という意見を聞いたこともある。自分の使命を果たすためだ、的な言説や、幸せであることが良いことだと認めつつも、幸せも相対的であるためにそれだけが存在するものではないというオルタナティブな説もあったりする。
なるほど。
ボクはフランクル先生のような、人生の唯一性、一回性のためにどんな境遇でも自分に生きる意味はあるんだという強い気持ちを持つことは、できないような気がする。
いま、運よく、大病も患っていないため、視力は落ちてきている気がしてならないのと、朝起きられないし、頭痛には悩まされるしで健康なのかは分からないが、まぁ健康である。
だから幸せだと言っても過言ではないと思う。
生きていること自体に価値があるという立場に立てば、それはその通りだと思う。
マネタイズ問題
そんな、スピリチュアル(精神)的なことは「どうでもいい」というのが、資本主義という僕らがおかれている環境であるとはいえる。あと、性別的な問題もある。
男性は女性よりも生きやすいかどうか、これも「状況やステータスによる」ということに過ぎないと思うものの、ただし、考慮すべきことであるとは思われる。
簡単に言えば、一言でまとめるなら「環境要素」というのは、切って切り離せない問題である。
その環境要素の一つとして、「お金問題」がある。
お金は汚い、という価値観が日本人にはあるかもしれないが、それはいったん切り離した方がよいとは思う。
お金は、あればあるほど望ましい。
何故ならば、資本主義という社会環境があるからだ。
この「資本主義」というのが、ボクら特に日本人は、正しいと、思っている節がある。
ちなみに、ボクも、「正しい」と思っている側である。
だが、いったん、それも疑う対象にしてもよいのではないかとも思う。
ベーシックインカムとか、もう何十年前から聞く言葉だが、未だにあまり浸透してない気もする。
どんだけ深まってるのか、少し気になるところだが、調べる気にはあまりなれない。チャットGPTさんに聞いてみるか。(フィンランドなどで実証実験も行われているらしい。へー)
まぁそんな感じなので、資本主義というのが絶対正しいマンというのもちょっと時代遅れとして考えるべきなのかもしれない。
とはいえ、問題は資本主義のついになる概念が、共産主義と思われることに問題がある。
どうにも、共産主義というのに対して、「歴史」を学べば学ぶほどに、どうにも「よくないもの」としてしか考えられなくなる。これもまた、ねじまげられた歴史な可能性も疑ってもかまわないが、この共産主義に対するマイナスイメージについては、まぁ事実ベースで考えても、共産主義として発生した著名な事件を挙げることでいったん思考除外しても構わないだろう。
資本主義
資本主義の良いところは、「自由」がお金で得られるという分かりやすい仕組みな点にある。お金でサービスやモノを得ることができる。
それは消費者の自由意志で可能となる。
これは非常に分かりやすいし、人間としての生き方について、肯定的に考えることができる。
だから、お金をいっぱい得ることは大事なことだ。
ここからスタートして考えたときに、「ゴール」はどこにあるのか。
世界の長者番付的なので、1位の人は、数十兆円らしい。
日本の国家予算、100兆円ぐらいだっけ?
(この辺が頭が悪い一般人なので、調べてみると、2025年は115兆円だった。だいたいあってた、おれすげー)
まぁ、国家予算的な資産がある人もいるということだ。
一生遊んで暮らせるわけである。
だがその、「遊んで」ということについて、どういう生活を送るかによって、色々必要なお金が見えてくることだろうと思う。
この前、試算したが、改めて考えてみよう。
いくらお金が必要か
もうすぐ、40代になるからにして、平均寿命が80歳ぐらいだとして、残り40年だとしよう。もちろん、大病を患うとか、いろんな人生イベントがあるだろうことで、バッファ的な考えは必要だが、あまり複雑なことはおいておこう。
住居費として、7万円としてみる。更新費は2月分としてみる。年間、……と考え始めて、あれ、これもGPTさんに聞いたらいいんじゃね? と思って聞いてみた。
✅【合計で必要な自己資金】
区間 | 金額 |
---|---|
40歳〜65歳(前半) | 5,400万円 |
65歳〜80歳(後半) | 1,440万円 |
合計 | 6,840万円 |
おー。出してくれた。詳細な内訳なども出してくれたし、すごいなやっぱり。
しかし、うーん、そうか。ゴールは、7,000万円ぐらいなのか。
ぜんぜん足りないな……。
さらに、いくつか条件追加して、いつから仕事辞められるのか追加質問したら、「まぁこの条件なら、63歳から辞めても大丈夫そうですね。でもギリなので64歳からの方が余裕あります」って教えてくれた。
そうなんだ笑
前途多難だ……。
小さな仕事
7000万円という、まぁちょっと途方もない数値が出てきたけれども、逆に、なんかの拍子に1億円手に入れば、いまの生活で、毎日日曜日、みたいな生活ができるということか。それはそれでよいかもしれない。
あとがき
(かっこ書きである。もろもろ、生活の環境や、興味が変わったため、もっと、ブログに軸を置きたいと思う。なんやかんや、月1回ぐらい書いておかないと、精神的にも保てない気がしてならない。ブログを書くというのは、一つ、創作であると言ってもよいだろう。消費はやっぱりダメだ。いやダメじゃないし、消費こそが目的かもしれないが、時間を消費で埋めるというのは良くない。時間というか、余暇。余暇というのは、仕事以外の時間。しかし、仕事とそれ以外を分けてよいのかも考えなければいけない。考えることが多すぎて、何も考えられなくなっているのが最近の状況だ。そういう状況自体を整理するということも含めて、ブログは重要。NOTEも始めたものの、あっちは、コミュニティづくりという目的がありそうなので、やはり、なんのしがらみにもしばられない、誰が見てるか、見てないか分からない、こっちのブログの方がインフラ(精神上の)として重要だと思われる)
今日の一言「要約あってると思う。補足すべきことも特にない」
今日の要約:ChatGPTさんに要約してもらったらこんな感じ。↓
ボクはゲームしてたいかな。
でも、最近やりたいゲームがあんましない。
三国無双originsは楽しいんだけど、終わっちゃうとまた寂しくなりそうなので、ゆっくりペースでやっている。
かわりに、ニュースとかネットで漁ってたりするが、うーん。たいがいに、気分が悪くなることが多い。
なんでこんなことすんの?
って人が多いよね。ネットみてると、ほんとに、人間嫌いになってくる。これは、誰もがそうなのではなくて、ボクが、ある程度、HSPよりというか、共感性が高いせいなんだと思う。人は人、ぐらいの感覚でいたらいいんだろうけど、まぁ、なんか共感しちゃうんだよな。
それゆえに、なんか理不尽なことを見聞きすると、イライラしてしまう。
さてでは理不尽とは何か??
ということを掘り下げてくと、たぶん1時間ぐらいはまた書いてそうなんだが、それは今日はやめておいて……。

まず一つ。
これ面白いねほんとに。もっと色々できるようになりたい。
どうも、AIっぽい絵というのはどうしてもなんかわかっちゃうけど、それも一工夫二工夫したりすると、「ぽさ」もなくなる。
もっというと、ぽさは、別にそれはそれで個人的には「イイ」って思う場合もあるから、好きですらある。
ただ、最近多い、リアル系のAI画像は、なんかちょっと「きもちわるい」って思う。
不気味の谷現象だと思う。
イラスト系は、AIぽいなと思っても、別に気にならないというか、むしろきれいだな、かわいいなとも思ったりする。その辺は感覚だろう。
とにかく、もっと色々思い通りに作れるようになりたい。創るというわけではないんだろうかな。
その辺が、まだ新しい技術ということで面白いと思う。
これも面白い。とりあえず、1時間ぐらい、インストとか、使い方動画みながら触ってみてこんな感じのを作成した。

なんだろ、面白いよね!
こんなこともできるんだなーということの連続だった。久々にわくわくした。こういう体験いいね。
ただ、完全に趣味だろう。お金にするというのは中々難しそうだ。だってすごい人が大勢いるんだから。
あと、かなり地道な作業が多い。
しかしこれは、もう10年、15年以上は離れてしまっている趣味だ。
ところが最近これも、Sunoという作曲AIなるものがあることが分かった。これもすごい。
やっぱり言語化するというのは「好き」なことなんだと思う。
これは、中学校ぐらいのときから始めていた「日記」。大学時代は、毎日書くことを365日以上続けた実績(?)もある。
やってるときは、たいしたことない書くことだけならだれでもできる、って思ってたが、いやしかし、毎日続けるというのは、それなりの熱量がなければやはりできなかった。
だって、かくこと、ないもの。大人になると。
自分一人のための日記であれば、なおさら意味がもう分からないし(自分の中での話)、このブログにしたって、「なんのいみがあるんだ?」と思い続けてしまう。
まぁしかし、ローカルな日記よりかは、もしかしたら誰かの目に留まって、なにかしらのカガク反応を起こしてくれるかもしれないから、ローカルよりかはいいかなと思って続けている。
物語を書きたい。描きたい。
今からやるのと、ちょっとでもやり始めたということは、大きな差になっていたと思う。
いまだに、お金とは何なのかよく分からないが、とにかく流動的なものであるということは分かった。
しかし、ゲームはどこまでいっても趣味な気がする。しかし、お金になる趣味というのもあるだろう。映画評論家は、映画をみて、それを言語化することでお金をもらっている。ゲーム実況者などという職業もあることだろう。
しかし、これは中々いばらの道だという気がするし、純粋に楽しみたいというのもある。
ゲームは批評をしたいというわけではないのだ。
ただ、小説や、漫画などは、読んでそのあとに色々感想を言いたくなる面がある。
思うに、ゲームと、その他エンタメとの違いはそこにある気がしている。そこ、というのは、「プレイアブル」かどうかということだ。
ゲームは、自分でプレイできる、この点が重要だと思う。
ゆえに、「ムービーゲーは、そこじゃないんだよな」という批評が成り立つ理由だと思う。
ムービーがきれいなのはそれにこしたことがないが、ゲーマーは、ゲームをしたいのであって、ムービーをみたいわけではない、という論調があるが、これはこれであると思う。
でも、ムービーもあった方がのめりこめる面があるから、一長一短というか、バランスの問題だろうと思う。
ロボットっていいよね。パイソンとか学んでみようかな。とりあえず、コマンドプロンプトつかって、「はろーわーるど」は表示できるようになった笑 5分~10分ぐらいで。
独学というか、まぁ大学などで1コマぐらい授業を受けたような気がするが、基礎は分かってるから、基本的なことはできる。
なんか、これはお金にできるスキルな気もしなくもないが、しかし、もはやノーコードプログラミングの方がはやりらしいので、まぁ不要なスキルな気がする。
でも、楽しいことは楽しいから、その楽しいという気持ちは忘れないようにしたい。
だから、あべいあぶる?スキルってあんまないのが不安。
持ち運べるスキルを身に着けたいよね。待遇はそこまで悪くない(と思う。比べることができないから)から、強く転職しようとは思わないものの、会社を信じるというのはあまりにも危険だ。
人もそうだ。
人自体をあまり信用できなかった自分が、ましてや組織を信じることができようはずがないのだ。
ほんとに自然なコミュニケーションが取れる。さっき、調べものをしていて、Copilotでは聞けなかったことを、ChatGPTが教えてくれたので、褒めたら、「いえいえ、Copilotも強みがありますし、上手く使い分けるのがベストですよ」なんて言ってきた。ボクより人間出来てないか……(笑)
今日の要約:ChatGPTさんに要約してもらったらこんな感じ。↓
筆者は、自分が本当に興味のあることについて考えを巡らせている。実業家のひろゆき氏が「休日に何をしているか」という質問を通して、その人の本当に好きなことを知るという話から、自分の趣味や関心を整理している。現在の関心事として、**Stable Diffusion(画像生成AI)、Blender(3Dモデリング)、音楽作曲(特にAIによるもの)、ライティング、投資、ゲーム、プログラミング、仕事、対話型AI(ChatGPT・Copilot)**などを挙げている。特にAI技術や創作活動には強い関心があり、これらをもっと深めたいと考えているが、職業として成立させるのは難しいとも感じている。また、ネットの情報を見て気分が悪くなることや、共感性が高いため理不尽なことに対してイライラしやすい自分の性格についても触れている。冷めた批評家のようなスタンスを取っていた時期もあったが、現在は熱中することの方が有意義だと考えており、もっと自分の好きなことに没頭したいと模索中である。
まえがき
実業家のひろゆきさんが、一緒に働きたい人を探す際に、土日何してる?という質問をするのだそうな。土日が休みじゃない人とかそういう意味じゃなくて、休みの日に何してる?という質問が、その人がお金を使ってでもやりたいこと、本当に好きなことは何なのか、ということを聞きたいということだろう。ボクはゲームしてたいかな。
でも、最近やりたいゲームがあんましない。
三国無双originsは楽しいんだけど、終わっちゃうとまた寂しくなりそうなので、ゆっくりペースでやっている。
かわりに、ニュースとかネットで漁ってたりするが、うーん。たいがいに、気分が悪くなることが多い。
なんでこんなことすんの?
って人が多いよね。ネットみてると、ほんとに、人間嫌いになってくる。これは、誰もがそうなのではなくて、ボクが、ある程度、HSPよりというか、共感性が高いせいなんだと思う。人は人、ぐらいの感覚でいたらいいんだろうけど、まぁ、なんか共感しちゃうんだよな。
それゆえに、なんか理不尽なことを見聞きすると、イライラしてしまう。
さてでは理不尽とは何か??
ということを掘り下げてくと、たぶん1時間ぐらいはまた書いてそうなんだが、それは今日はやめておいて……。
カテゴライズ
どんなことに興味をもって時間を使っていこうか、ということを考えたい。まず一つ。
Stable Diffusion
画像生成AIこれ面白いねほんとに。もっと色々できるようになりたい。
どうも、AIっぽい絵というのはどうしてもなんかわかっちゃうけど、それも一工夫二工夫したりすると、「ぽさ」もなくなる。
もっというと、ぽさは、別にそれはそれで個人的には「イイ」って思う場合もあるから、好きですらある。
ただ、最近多い、リアル系のAI画像は、なんかちょっと「きもちわるい」って思う。
不気味の谷現象だと思う。
イラスト系は、AIぽいなと思っても、別に気にならないというか、むしろきれいだな、かわいいなとも思ったりする。その辺は感覚だろう。
とにかく、もっと色々思い通りに作れるようになりたい。創るというわけではないんだろうかな。
その辺が、まだ新しい技術ということで面白いと思う。
ブレンダー
あと、ブレンダーも触ってみた。Blenderってかくのかな。スペル。これも面白い。とりあえず、1時間ぐらい、インストとか、使い方動画みながら触ってみてこんな感じのを作成した。
なんだろ、面白いよね!
こんなこともできるんだなーということの連続だった。久々にわくわくした。こういう体験いいね。
ただ、完全に趣味だろう。お金にするというのは中々難しそうだ。だってすごい人が大勢いるんだから。
あと、かなり地道な作業が多い。
音楽・作曲
音楽作るのも好きだった。しかしこれは、もう10年、15年以上は離れてしまっている趣味だ。
ところが最近これも、Sunoという作曲AIなるものがあることが分かった。これもすごい。
ライティング
文字書くこと。やっぱり言語化するというのは「好き」なことなんだと思う。
これは、中学校ぐらいのときから始めていた「日記」。大学時代は、毎日書くことを365日以上続けた実績(?)もある。
やってるときは、たいしたことない書くことだけならだれでもできる、って思ってたが、いやしかし、毎日続けるというのは、それなりの熱量がなければやはりできなかった。
だって、かくこと、ないもの。大人になると。
自分一人のための日記であれば、なおさら意味がもう分からないし(自分の中での話)、このブログにしたって、「なんのいみがあるんだ?」と思い続けてしまう。
まぁしかし、ローカルな日記よりかは、もしかしたら誰かの目に留まって、なにかしらのカガク反応を起こしてくれるかもしれないから、ローカルよりかはいいかなと思って続けている。
物語を書きたい。描きたい。
投資
20代の終わりぐらいから、30歳になってから? 投資を始めたが、これは良かったと思う。今からやるのと、ちょっとでもやり始めたということは、大きな差になっていたと思う。
いまだに、お金とは何なのかよく分からないが、とにかく流動的なものであるということは分かった。
ゲーム
やっぱりゲームは面白いと思う。しかし、ゲームはどこまでいっても趣味な気がする。しかし、お金になる趣味というのもあるだろう。映画評論家は、映画をみて、それを言語化することでお金をもらっている。ゲーム実況者などという職業もあることだろう。
しかし、これは中々いばらの道だという気がするし、純粋に楽しみたいというのもある。
ゲームは批評をしたいというわけではないのだ。
ただ、小説や、漫画などは、読んでそのあとに色々感想を言いたくなる面がある。
思うに、ゲームと、その他エンタメとの違いはそこにある気がしている。そこ、というのは、「プレイアブル」かどうかということだ。
ゲームは、自分でプレイできる、この点が重要だと思う。
ゆえに、「ムービーゲーは、そこじゃないんだよな」という批評が成り立つ理由だと思う。
ムービーがきれいなのはそれにこしたことがないが、ゲーマーは、ゲームをしたいのであって、ムービーをみたいわけではない、という論調があるが、これはこれであると思う。
でも、ムービーもあった方がのめりこめる面があるから、一長一短というか、バランスの問題だろうと思う。
プログラミング
自動化、ってやっぱり面白いと思う。ロボットっていいよね。パイソンとか学んでみようかな。とりあえず、コマンドプロンプトつかって、「はろーわーるど」は表示できるようになった笑 5分~10分ぐらいで。
独学というか、まぁ大学などで1コマぐらい授業を受けたような気がするが、基礎は分かってるから、基本的なことはできる。
なんか、これはお金にできるスキルな気もしなくもないが、しかし、もはやノーコードプログラミングの方がはやりらしいので、まぁ不要なスキルな気がする。
でも、楽しいことは楽しいから、その楽しいという気持ちは忘れないようにしたい。
仕事
投資以外に収入になってる、いまやってる仕事は、広く言えば「事務」なんだよな。だから、あべいあぶる?スキルってあんまないのが不安。
持ち運べるスキルを身に着けたいよね。待遇はそこまで悪くない(と思う。比べることができないから)から、強く転職しようとは思わないものの、会社を信じるというのはあまりにも危険だ。
人もそうだ。
人自体をあまり信用できなかった自分が、ましてや組織を信じることができようはずがないのだ。
ChatGPT・Co-Pilot
対話型のAIもすごい。正直、企業が使うラインとかの、チャットボット的なのをいままで想像してたが、実際チャットGPT使ってみて、その精度に驚いた、というのが、もはやブームが終わった1年ぐらい前だったと思う。ほんとに自然なコミュニケーションが取れる。さっき、調べものをしていて、Copilotでは聞けなかったことを、ChatGPTが教えてくれたので、褒めたら、「いえいえ、Copilotも強みがありますし、上手く使い分けるのがベストですよ」なんて言ってきた。ボクより人間出来てないか……(笑)
あとがき
(かっこ書きである。とりあえず、色々触れて、書いていこうと思っている。最近、ほんと、「素の自分」に戻ってしまった。というのは、なんか、批評家めいた、つまんない人間ということだ。基本的に、「覚めている」人間なんだと思う。誤変換したが、まぁそれもある。冷めていると書きたかったが。それは、「怖い」からだ。のめりこむと、飽きちゃったときにショックうけるから、どこか、批評家スタンスでいることで、自分を「守る」ことをしたかったのだろうと思う。ただ、そういうスタンスは、20代後半にはやめようと思っていて、いまはもうやめれてるか分からんが、基本的には「熱中」した方がむしろ有意義だと思ってるから、そういうスタンスはやめるよう心掛けている。いまは、冷めてしまった時期に陥っている。まぁでも、むしろ、こういう時期が多かったから、ボクは色々なことができるようになったというのはある。もうちょい色々考えたり、スキルを深めたりしたい。といってもなー)
今日の一言「できるだけ文章化言語化」
ただ、今後も、明日も、明後日も生きることを前提として考えた場合何が必要なのか。
明後日まで生きることはさほど難しくない。
急遽、体調を崩して会社を休んでも、有給は40日程度あるため、問題ないだろう。
では、1か月後はどうか。
これも、多分、問題ないように思われる。
具体的な金額は書かないけど、証券など金融資産込みで、1,000万円は貯まった。
ので、仮に職を失うことになっても、大きな支出が必要になっても、たとえば大病で高額な医療費が必要になっても、なんとかなりそうだ。
よくわからんが、高額療養費制度というのがあって、どんだけ高額な医療にかかっても(保険診療に限る)1か月8万~16万ぐらいで自己負担は済むようだ。
では、1年後はどうか?
いつか死ぬことは分かっていても、それがいつなのかはわかっていないし、考えてもいない。
なかなか考えるのが難しいからだ。だから、考えるための補助線が必要になる。
さて続けよう。
10年後はどうか?
ちょっと、厳しくなってきそうだ。仮に、1か月のすべての生活費が15万円だとしたら、車検とかそういうの抜きで(ちなみに車検代が自分に発生しているかなど個人特定のための情報は仮定である)、どうか?
15万円×12か月×10年=1,800万円
となる。
うむむ。貯金が仮に1000万円だとしたら足りない。
何らかの収入を得る手段が必要となるだろう。それに、上に書いた通り、1時的に発生する経費、たとえば家賃だけではなく、更新料などもあったりする場合があるだろう。そういうときに、まず、足りないだろう。
仮に、月に10万円だけの収入を得る手段を得たとする。
すると、
(15万円-10万円)×12か月×10年=600万円
これなら、行けるかもしれない。
月10万円の仕事というのであれば、まぁ、結構あるのではないだろうか。
ないのかな?
たとえば、身近なスーパーなどのアルバイトは、時給1200円ぐらいだった。
さて、10万円稼ぐには何時間必要なのか。
約83時間。
週4時間勤務だと、1週間で20時間とすれば、1か月約80時間なため、まぁそれぐらい。平日4時間~5時間ぐらいの勤務でよさそうだ。
人間関係など色々問題ありそうだが、まぁそれぐらいは我慢して働くとすれば、
ゆえに、たぶん、10年はまだ生きられる気がしてくる。
だが、もうそろそろ、独身以外の選択肢は考えられなくなってきた。
それこそ、10年前はまだどうなるか分からなかった、が。
でも、とりあえず、10年はなんとか生きられるというのは、希望としてあってもよいと思う。
果たして、何歳まで生きてれば自分は満足なのか。
健康が大事だ。
健康ではないのであれば、もっと早く死んだ方がましだということになりそうだ。
つまり何歳まで生きるか、というよりも、問いは、何歳まで健康でいられるか、ということの方が現実的な気がしてくる。
しかしこれはまた予測困難だ。
健康診断をうけていれば安心ということでもないと思う。
交通事故など、不慮の事故もある。
予測困難だ。
かといって、家にとじこもることはまぁ、安全かもしれないが、それはそれで運動リスクもあるだろう。ロードランナーがあればよいかもしれないが。そういう問題ではなかろう。
ここで、思考はストップせざるえないのかもしれない。
だからこそ、考え続ける必要がありそうだ。
「今日は目が覚めた。ラッキーだ。では、どうしたら今日は最高の一日になるのか」
こういうことかもしれない。つまり、未来を考えることや、終わりを考えることは意味のないことなのかもしれない。
それは、明確に否定しておきたい。
もっといえば、「生きる意味がない」というのも、真実の面はあることを知ったうえで、明確に否定しておきたい。
「生きる意味はある」もっといえば、「あるべき」だ。
それはささいなものでもよい。冷たい風を頬で感じること、だけでもよい。つまり、なんでもない日常をおくることが生きる意味だ、というのでもよい。常に頭の中に意識する必要もない。
ただそれでも、生きる意味は確かに、僕らのそばにあるべきだと思う。
目標や、ゴールもあるべきだ。
人は、何か意味があれば多少の苦難は耐えられるらしい。
何か得られるものがある、という希望があってこそ、何かしらの行動がとれるのだ。
人は、自分をホモサピエンスというぐらいに、知能があるとしている。生物的な欲求ではなく、「仮説」を立てる能力があるということだ。
虚構の世界を考えることができるのが、人間という種の優れたところというわけだ。
犬やイルカなど、コミュニケーション能力はあるというが、しかし、あくまで物理現実世界の中でのコミュニケーションであろう。たぶん。
バーチャルユーチューバーの世界を考えたりすることはないと思われる。
物語や、創作活動をするということもないだろう。犬や猫が。
逆にだからこそ、擬人化というのは、非常に面白い創作のネタだと思う。人ではないものが人のようにふるまうというのは、それ自体「面白い」ものである。そして、そういったことを「面白い」と思えるのもまた、人間ならではであると思われる。
創作というのは、今まさにこう、書いている文字。これも創作だ。
AIも似たような日記を書くことができるのかもしれない。しかし、それは、AIくんとしての日記であって、「僕自身」のものではない。
そこには大きな違いがある。
そして、創作というのは、消費とは異なる面がある。
FF14はとても完成された虚構の世界であって、そこで私は魂を抜き取って別の世界で生きようとさえ思った。
仮想現実。それは、別にセカンドライフというゲームであってもよかったと思う。
しかし、「所詮はゲーム」という気持ちを強くもってしまう出来事が発生してしまった。いずれは、まぁそんな日も来ると思ったが、割と早かった。それは良かったことだったのかもしれない。逆に。

いまや、それなりに頑張ってきたので、物理現実も、わりと「マシ」な部類である。
先に書いた通り、資産的にも1000万円以上は貯まったので、10年ぐらいは生きれる見込みも立っている。
人間関係にも困っていない。そこまで多い人間関係が欲しいとも思ってないし。
住む家もあれば、趣味もある。十分な生活だ。
が、しかし、「消費」では、ボクはやはり満たされない。
何か作っていたい。作るでもいいし、創るでもよいけど。
そういうことが分かった。
まえがき
ほんとは、記事のカテゴライズをしたいな。自分のこと
自分自身ことを、説明する必要はないのかもしれない。ただ、今後も、明日も、明後日も生きることを前提として考えた場合何が必要なのか。
明後日まで生きることはさほど難しくない。
急遽、体調を崩して会社を休んでも、有給は40日程度あるため、問題ないだろう。
では、1か月後はどうか。
これも、多分、問題ないように思われる。
具体的な金額は書かないけど、証券など金融資産込みで、1,000万円は貯まった。
ので、仮に職を失うことになっても、大きな支出が必要になっても、たとえば大病で高額な医療費が必要になっても、なんとかなりそうだ。
よくわからんが、高額療養費制度というのがあって、どんだけ高額な医療にかかっても(保険診療に限る)1か月8万~16万ぐらいで自己負担は済むようだ。
では、1年後はどうか?
いつまで生きるのか
ひとはいずれ死ぬ。でも、明日だとは思っていない。いつか死ぬことは分かっていても、それがいつなのかはわかっていないし、考えてもいない。
なかなか考えるのが難しいからだ。だから、考えるための補助線が必要になる。
さて続けよう。
10年後はどうか?
ちょっと、厳しくなってきそうだ。仮に、1か月のすべての生活費が15万円だとしたら、車検とかそういうの抜きで(ちなみに車検代が自分に発生しているかなど個人特定のための情報は仮定である)、どうか?
15万円×12か月×10年=1,800万円
となる。
うむむ。貯金が仮に1000万円だとしたら足りない。
何らかの収入を得る手段が必要となるだろう。それに、上に書いた通り、1時的に発生する経費、たとえば家賃だけではなく、更新料などもあったりする場合があるだろう。そういうときに、まず、足りないだろう。
仮に、月に10万円だけの収入を得る手段を得たとする。
すると、
(15万円-10万円)×12か月×10年=600万円
これなら、行けるかもしれない。
月10万円の仕事というのであれば、まぁ、結構あるのではないだろうか。
ないのかな?
たとえば、身近なスーパーなどのアルバイトは、時給1200円ぐらいだった。
さて、10万円稼ぐには何時間必要なのか。
約83時間。
週4時間勤務だと、1週間で20時間とすれば、1か月約80時間なため、まぁそれぐらい。平日4時間~5時間ぐらいの勤務でよさそうだ。
人間関係など色々問題ありそうだが、まぁそれぐらいは我慢して働くとすれば、
ゆえに、たぶん、10年はまだ生きられる気がしてくる。
一人でいる場合の想定である
独身だからできる計算だ。だが、もうそろそろ、独身以外の選択肢は考えられなくなってきた。
それこそ、10年前はまだどうなるか分からなかった、が。
でも、とりあえず、10年はなんとか生きられるというのは、希望としてあってもよいと思う。
果たして、何歳まで生きてれば自分は満足なのか。
健康が大事だ。
健康ではないのであれば、もっと早く死んだ方がましだということになりそうだ。
つまり何歳まで生きるか、というよりも、問いは、何歳まで健康でいられるか、ということの方が現実的な気がしてくる。
しかしこれはまた予測困難だ。
健康診断をうけていれば安心ということでもないと思う。
交通事故など、不慮の事故もある。
予測困難だ。
かといって、家にとじこもることはまぁ、安全かもしれないが、それはそれで運動リスクもあるだろう。ロードランナーがあればよいかもしれないが。そういう問題ではなかろう。
ここで、思考はストップせざるえないのかもしれない。
終わりを考えること
これは一朝一夕では考えつくせるものではないのだろう。だからこそ、考え続ける必要がありそうだ。
「今日は目が覚めた。ラッキーだ。では、どうしたら今日は最高の一日になるのか」
こういうことかもしれない。つまり、未来を考えることや、終わりを考えることは意味のないことなのかもしれない。
それは、明確に否定しておきたい。
もっといえば、「生きる意味がない」というのも、真実の面はあることを知ったうえで、明確に否定しておきたい。
「生きる意味はある」もっといえば、「あるべき」だ。
それはささいなものでもよい。冷たい風を頬で感じること、だけでもよい。つまり、なんでもない日常をおくることが生きる意味だ、というのでもよい。常に頭の中に意識する必要もない。
ただそれでも、生きる意味は確かに、僕らのそばにあるべきだと思う。
目標や、ゴールもあるべきだ。
人は、何か意味があれば多少の苦難は耐えられるらしい。
何か得られるものがある、という希望があってこそ、何かしらの行動がとれるのだ。
人は、自分をホモサピエンスというぐらいに、知能があるとしている。生物的な欲求ではなく、「仮説」を立てる能力があるということだ。
虚構の世界を考えることができるのが、人間という種の優れたところというわけだ。
犬やイルカなど、コミュニケーション能力はあるというが、しかし、あくまで物理現実世界の中でのコミュニケーションであろう。たぶん。
バーチャルユーチューバーの世界を考えたりすることはないと思われる。
物語や、創作活動をするということもないだろう。犬や猫が。
逆にだからこそ、擬人化というのは、非常に面白い創作のネタだと思う。人ではないものが人のようにふるまうというのは、それ自体「面白い」ものである。そして、そういったことを「面白い」と思えるのもまた、人間ならではであると思われる。
創作をするということ
結局今日も、なぜ生きるのかということはわからずじまいであるが、しかし、やはり思ったこととして、「創作をすること」ということは、僕にとって大事であって、避けられない事態なのだと思う。創作というのは、今まさにこう、書いている文字。これも創作だ。
AIも似たような日記を書くことができるのかもしれない。しかし、それは、AIくんとしての日記であって、「僕自身」のものではない。
そこには大きな違いがある。
そして、創作というのは、消費とは異なる面がある。
FF14はとても完成された虚構の世界であって、そこで私は魂を抜き取って別の世界で生きようとさえ思った。
仮想現実。それは、別にセカンドライフというゲームであってもよかったと思う。
しかし、「所詮はゲーム」という気持ちを強くもってしまう出来事が発生してしまった。いずれは、まぁそんな日も来ると思ったが、割と早かった。それは良かったことだったのかもしれない。逆に。
物理現実からの飛翔
とにかく、物理現実はそんなに好きじゃなくなったのであった。思い返せば、小学校ぐらいの時代から。いまや、それなりに頑張ってきたので、物理現実も、わりと「マシ」な部類である。
先に書いた通り、資産的にも1000万円以上は貯まったので、10年ぐらいは生きれる見込みも立っている。
人間関係にも困っていない。そこまで多い人間関係が欲しいとも思ってないし。
住む家もあれば、趣味もある。十分な生活だ。
が、しかし、「消費」では、ボクはやはり満たされない。
何か作っていたい。作るでもいいし、創るでもよいけど。
そういうことが分かった。